桜の樹の下に埋まっているもの

桜の樹の下に埋まっているもの

 

(FMC NEWS 2014年4月号より転載、加筆)

4月号が発刊される頃、西日本ではお花見の盛り上がりも少し落ち着いているでしょうか。私が暮らしている浅間山の麓では、未だ残雪がしぶとく地表に張り付いています。
こちらに移り住んでから耳にした言い伝えによると、カマキリの産卵場所でその年の積雪量を予測することができるのだとか。木の幹や草の茎に産み付ける卵が積雪に埋もれずに春を迎えられるように、気温や湿度に反応して体が動くようインプットされているのでしょうか。

私の住処の裏手ではフクロウやカモシカの暮らす森が無数の生命を抱えています。それぞれの原則に従いながら日々を争い、しかし森全体として調和が崩れないのは、そこに何者の意思も感情も介在していないからでしょう。標高2000m付近で毅然とした一線を結ぶ森林限界が、この世界の多層的な構造を象徴しているようです。そして山を背に街を見下ろすと、人々の暮らしが不規則に明滅し、それはそれで遠目に美しく見えます。

うららかなる日々にはまだ遠いものの、標高1000m付近では雄キジが力の限りに雌を呼び始めました。気の早いツキノワグマはそろそろ冬眠から目覚める頃合いです。私は未だこの山で熊に出会ったことがありません。しかし何処かに、確かに居ることを知っているだけで、弛緩したこの生活があるとき一変する可能性を感じることができます。

思わず浮足立つ春の快楽の成分は、芽吹く植生の彩り、温まる土の香り、そして何より嬉しいのは生きとし生けるものが皆同じような心地よさを感じていると思えることかもしれません。しかし、日陰に残った醜い残雪を見つめていると、この共有感は独りよがりの錯覚にも思えてきます。

木と森と自己と宇宙を同時に見ようとした東北の古い詩人は「四月の気層のひかりの底を唾し歯ぎしりゆききする俺はひとりの修羅なのだ」(宮沢賢治『春と修羅』より抜粋)と記します。

桜の樹の下に何かが埋まっているとしたら、現代の東北の詩人たちを孤独にさせないための、この優しい季節に物事の始まりと終わり、出会いと別れの節目を配したような、そんな暖かな知恵が埋まっていることを願います。

 

2014年3月某日

長野県にて

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